2006年9月アーカイブ

ふと一人になった時に、みさの最期の瞬間をみさ視点で見た映像と声がよくフラッシュバックする。何度も何度も同じところがフラッシュバックする。

俯せで眠っている身体から魂がゆっくり抜けて出る。みさのよく使っていた擬音に倣うなら、ふわーり、ふわーりと言うように。身体から離れている自分に気付いても戻れない。「こうじ、たすけて」と言う声は届かず、僕はまだ眠っている。一大事にも気付かず眠っている。みさは多分涙をぼろぼろこぼしながら「こうじ…さよなら…」とつぶやいたように思う。

「こうじの子供を産んで、ずっと幸せに暮らしたかっただよ」と言う声が聞こえる。繰り返し愛してると伝える言葉が何度も聞こえる。叶わなかった願いが渦を巻いている。

時々不思議なことが起きる。トイレに行った覚えもないのに勝手にペーパーが使われて流されずに置かれていたり、取り込んで放り投げていた洗濯物が下半分綺麗に畳まれていたりする。僕がおかしくなってしまっているのかも知れないけれど、そこに残った願いがそうさせているのかと思えたりもした。

付き合い始めの気持ちを持ち続けていられたらこうはならなかった。僕はいつから人を慮る気持ちを忘れていたんだろうか。自業自得だけれど僕の小さな願いも叶わなかった。知り合うきっかけになった、最初の共作曲はレコーディング途中のままだ。

病気がひどくなっても、悲しい事があっても、自殺未遂をしても、結局まだ死にたくなかったからみさは生きていたんだと思う。普通なら死んでしまう量の薬を飲んでも、包丁で自分の首を切っても、何度も手術をしても、どんな救われない状況でも、まだ希望が微かに感じられていたから死にたくなかった。とっくに死んでいても不思議ではなかった身体に、愛する心とやり残した事に対する気力だけで命の炎を燃やし続けていた。

しかし叶わぬ願いはその身を少しずつ灰にする。最後の最後に燃え尽きさせてしまったのは、僕だ。気付くのが本当に遅すぎた。

とても寒い日に生まれ、小さな頃から病弱な身体をだましだまし必死で生き続けて、10479回目の朝日を見ることなく静かに息をするのをやめてしまったみさへ。

僕は「その人の記憶が、生きている人の心の中にある間はその人は生きている。みんなの心の中からその記憶が消え去ってしまったときに初めて、その人はこの世から消えてしまうのだ」という考え方を信じている。だから、みさと僕しか知らなかったかも知れないことや、いつか僕もディテールを忘れてしまうかも知れないこと、遺品の手帳に書かれていたことなんかを書き遺すことで、みさを知る全ての人の心に可能な限りみさの姿を伝えておきたいと思う。もう一度あなたに死なれることがないように。