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ハナイ氏の御尊父様がお亡くなりになられたとのこと。謹んでお悔やみを申し上げます。
紋切り型の言葉以上に何を伝えようとしても、blog の形でだと失礼にしかならないような気がするので、後日改めて何らかの形で伝えたいと思います。

読ませてもらって、公開出来る事を整理して読者に直接の痛みを覚えさせない程度のオブラートに包んだ上で、ハナイ氏は何か少し申し訳なさそうに掲載したんではないかとすら思えた。わずか一週間で僕ならそこまで自分の面倒を見られるだろうか。
7 年前、自分の唯一の理解者だと思っていた祖父が永眠した際には、従兄弟中で一番年上であるにも関わらず、葬儀の最中に僕は臆面もなく号泣した。そういった場面では、感情をコントロールせずに垂れ流しにしているのが一番楽だ。付き合わされる周りはたまったものではないだろうが。

ハナイ氏の引いている

「その人の記憶が、生きている人の心の中にある間はその人は生きている。みんなの心の中からその記憶が消え去ってしまったときに初めて、その人はこの世から消えてしまうのだ」

という言葉は僕の死生観ともおよそ共通する。先立つ者の事を語り継ぐことで心の中にその人物が生き続けるというのは宗教的かも知れないが、故人と近しい間柄の者同士で故人のことを語っている時には、あたかも生きているその人物の噂話をしているかのように錯覚することすらある。特に、故人を想起させる媒体がある場合にはそれが顕著である気がする。それは、故人の偉業の記録であったり、芸術家であればその作品であったり。例えば作曲家は死んでしまっても優れた曲は世に残る。その曲が存在することで、故人の生きていた痕跡は歴然としている。決して故人が戻ってくることはないが、最も故人の存在を意識することが出来るのが媒体を通した記憶の中だ。

誰かを失ったときには、これまで本人から与えられていた数々のいわゆる存在証明を、自らの記憶の中に求めるよう切り替える作業が最も大変なのだと思う。とはいえ、心構えをしておいて備えられる種類のことではなく、自分にそれが起きた際には冷静に対処できる自信はない。遠い存在の人ならいざ知らず、身近な人であればあるほど、我々はその存在を当たり前のものとして受け止めてしまっているだろうから。

今日、僕は身近で大切な人をハナイ氏とは別の意味で失った。けれどハナイ氏の姿に倣い、それを事実として捉え、前向きに進んでいくことが今の僕にも必要なことだと思う。今日は僕自身が混乱していて、何か意味のある結論を導き出せなかったけれど、追々考えて行こうと思う。


2 Comments

    • ハナイ
    • Posted 2004年2月27日 at 3:00 PM
    • Permalink

    言及ありがとうございます。blog の形でだと失礼にしかならない、ということはないですよ。どんな形であれ、こうして波紋が広がっていくのは(ネガティヴな誹謗中傷とかでない限り)、すごく有難いことだと思っています。儀式や集会は人の繋がりを実感させるものとして凄く有用だったのですが、それ以外でも繋がりを感じるものの存在はすごく大きいんですよね。
    「存在証明を、自らの記憶の中に求めるよう切り替える作業が最も大変」というのはすごく同感。
    おたがい、頑張りましょう。

  1. こちらこそどうもです。
    僕も書くことで昇華させられるものがあるかも知れないので、ある程度整理できたら文章にしてみようと思います。
    僕にとっての父親は、超えられそうにない高い壁であるがゆえに常に反発の対象になっていましたが、同時に尊敬の対象でもありました。この歳になって少しずつ父親に似て来た自分の中に、父親譲りの癖を見つけた時など特にそう思います。


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